『喫茶去』とは?
“きっさこ”と読む。
直訳すれば「喫茶して去れ」となるが、「お茶を召し上がれ」という程の意味である。禅僧が好んで色紙などに書く言葉で、いわゆる「禅語」と呼ばれるもののひとつである。

「趙州録」に次の話がある。

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趙州禅師(じょうしゅう=中国の有名な禅僧)のところに2人の修行僧が来た。

師 : 前にもここに来たことがあるか?
僧1: 来たことがありません
師 : お茶を召し上がれ(師云、喫茶去)

もう一人の僧に趙州がたずねた。
師 : 前にもここに来たことがあるか?
僧2: 来たことがあります
師 : お茶を召し上がれ

院主(寺務総長)が師に尋ねた。
院主: 前に来たことがない者に『お茶を召し上がれ』とおっしゃるのはともかくとして、 前にも来たことがある者になぜ『お茶を召し上がれ』とおっしゃるのですか?

師 : 院主さん!
院主: はい。
師 : お茶を召し上がれ

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上記の解説《『禅語散策』(田上太秀/東書選書)》より:

新参者とか古参者とかいう区別を立てて茶の接待に差別があってはならない。茶を飲むことに本来違いがあるわけではない。茶に逢ったら茶を飲む。これになんの差別があるのだろうか。仏道に入るには特別の入り口があるわけではない。茶を飲む。この一事でも仏道の入り口である。だからこそ趙州は新参者にも古参者にも「お茶を飲みなさい」と勧めたのである。

茶を飲む、その一事に専念すること。茶を飲むときは茶だけに自分を向ける。ほかに心を向けることをしない。差し出された茶をゆっくり味わい、茶と自分との二つが一体となる。いまその茶と対するのはそれを飲もうとする自分だけである。茶と自分との対話がそこに実現しようとしている。ここに他の介在する余地は何もない。この一事はまさにさとりと修行との関係と同じである。さとりの当体であるブッダとさとりを求めて修行する自分との対話でもある。

この関係はなにも茶だけに求める必要もない。飯でも同じである。掃除、洗濯、炊事でも同じである。至る所において自分が対したものはすべて仏法と理解して、それと皮肉骨髄を挙げて対話しなければならない。

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私は、お茶をだされたらコーヒー(これは例え話ですよ!)のことを考えたりケーキのことを考えたりして、せっかく目の前に ある美味しいお茶を存分に味わうことができないような人間である。

いつも自分が今持っていないもののことばかり考えていて、 目の前にある物事に集中することができない。

そういう自分への戒めとして『喫茶去』という言葉を掲げた。 「今ここにあるものを100%楽しもう」というのが、私流の『喫茶去』の解釈である。


それでは皆様、お茶を召し上がれ。




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