阿波一国参りを終えて

(5月22日)


4:30 起床。

5:30 宿坊と本堂が離れているため、早めに出発。

6:00 本堂にて朝のおつとめ。(やっぱり朝のほうが「おつとめ」って感じがする)

6:40 朝食。

7:30 出発。途中、徳島で2人下車。星さんというおばあちゃんは、福島から一人でやってきて、今回の「阿波」で八十八ヶ所全部回り終えて「結願(けちがん)」となった。星さんはこの足で高野山へ満願の報告にいくのだそうだ。

11:30 高松 栗林公園の前のドライブイン(?)で昼食。安楽寺で撮った記念写真が出来上がっていて配られる。夫婦連れの人には夫婦2人で撮った写真ももっていた。高松で5人下車。

あとは一路松山へ。バスの中では、四国遍路のビデオ等を流している。ビデオが終る頃にちゃんと松山についた。(3:00頃だったか)

伊予鉄道本社で、金剛杖を宅急便で送ってもらったり、御影帳(寺毎に御本尊の御影をいただける。それをいれておくアルバムみたいなもの)を買ったりとあわただしい。

松山市内のビジネスホテルに一泊し、翌日午後東京に戻った。






巡礼の途中私は、ほとんど何も考えていなかった。ただ淡々と、参拝の手順を繰り返していた。巡礼の醍醐味は、この「無心になれること」なのではないだろうか?

まわる寺の数や順番が決まっていて、それを次々にクリアしていかなければならないこと。いろいろな「きまりごと」があり、それに従わなければならないこと。そして「観光」ではなく「巡拝」であるという緊張感。そういうものが、無心な状態を作り出すのだろう。

腹筋運動等をするときに「できる回数だけやりなさい」なんて言われても、苦しくなってすぐやめてしまうが、あらかじめ「30回やりなさい」と言われると、なんとか目標を達成できる。あんな感じで、目標がはっきりしているから頑張れる。

目的がはっきりしていることが、気力と体力を充実させ、病気すら治してしまうのではないだろうかと思う。巡礼のお陰で病気や怪我が治ったという話は、奇跡ではなく、案外そんな単純なことなのかもしれないと思った。

私は特に弘法大師を崇拝している訳ではないのだが、何かを信じることで生まれるパワーというものは実感できる。巡礼は自然治癒力を高める、優れた「トレーニング・プログラム」なのかもしれない。

行く前は「バスが入れないところもあるし、お寺の中は階段が多いから、大丈夫かしら?」と不安げだった私の母も、旅行中は私よりずっと元気で、「楽しくてしかたない」という感じだった。帰ってからきいてみると「不思議と全然 疲れなかった。」と言っている。

私たちは、添乗員さん達の細やかな心遣いや、バスの中のあたたかい雰囲気が気に入ってしまって、あと三国もまた同じ伊予鉄道の巡拝バスでまわることに決めている。

はっきり言って行く前は、『お遍路ツアーのバスなんてジジババばっかりで、陰気くさいんだろうなあ』と覚悟していたが、それは大違いで、たしかに60代以上の方がほとんどだったけれど、みな私などよりずっと元気で、明るくて、楽しかった。でも、よくよく聞いてみれば夫を(妻を、子どもを)亡くしたことがきっかけで来た、という方が多い。

行動を共にするうちに親しくなり、最後にはなんだか別れるのがさみしいような気持になっていた。普通の物見遊山のツアーとは、かなり雰囲気が違うのではないかと思う。

時間とお金が許せば、すぐにでも全部回りたい気分だが、まあ無理せずに、 ということで毎年一国づつ、4年がかりで八十八ヶ所を回り終えるつもりだ。私は、いつかは歩いて回りたいとも思っている。


ということで次回「お遍路日記PART2/修行の道場・土佐一国参り編」は1年後(1998年5月)の予定。


・・・だったのですが、母が病気をしたため延期になっています。早く続きを回りたいなー。(99年6月現在)


>>続編 「毎日がお遍路」(2004年11月の歩き遍路日記)へ


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